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- 生年月日 1943年3月20日
- 出身 山形
- 中学を卒業後、親戚のおじさんが、横浜市鶴見で鉄工関係の仕事をしていて、人を募集しているということで、そこに住み込みで入り、製缶工見習いとして働くことになったのである。尚、おじさんは、2年後に会社「(有)富士建設工業」を設立。
- 1968年、25歳の時、自分一人で生活がしたくなり、アパートを借り引っ越しすることにしたが、仕事の方はそのままおじさんの所で働くことにした。
- 1972年、29歳の夏、長年の夢だった「アメリカ一人旅」を実行(グレイハウンド長距離バスを利用した、35日間のアメリカ一人旅であった)。
- 1973年、30歳の時、今迄お世話になったおじさんの所を辞め、(株)須山製作所(川崎)に製缶工として入る。
- 1975年、32歳で結婚。のちに2人の息子に恵まれる。
- 1978年、35歳の時、(株)須山製作所(川崎)を辞め、(株)美輝製作所(鶴見)に製缶工として入る。
- 入社2年後の時、(株)泉研究所(東京、三田)から依頼の「無菌・無乾燥冷蔵庫」の試作機の製作担当者となったのである。
- 9月に入って取り掛かり、一応の完成目標を10月末としたが、大幅に遅れ、完成したのは11月末になってしまった。
- 庫内の冷却方法は「タンクに入ったブライン液(不凍液)を冷凍機でマイナス温度に冷やし、その冷えたブライン液を庫内天井裏に設けた冷却用コイル及び水冷却用コイルに循環ポンプで送り、庫内と水を冷やし、更に、庫内を、無菌・無乾燥にするために、庫内の空気を、多数のスプレイノズルを有するサイクロン式冷却筒にファンで導き、その空気が中心部の噴霧水の中を通る事によって空気は洗われ、更に外側の空間を通る過程で遠心力によって水滴は除去され、無菌の湿度100%の空気が庫内に送られる」という方式である。
- 完成後の、庫内、温湿度計記録(1週間)は、温度は2℃で上下の幅が殆どなくほぼ一直線、湿度は100%で、その時はこれは凄いと言うことになり、新聞にも載ったのである。
- その後、泉研究所は、この「無菌・無乾燥冷蔵庫」(その後「無菌庫」と名付ける)を本格的に売って行くための準備として、東京(墨田)に展示室を兼ねた工場を借りることになったのですが、私はそれを期に、泉研究所に入ることになったのである。
- その後、「無菌・無乾燥冷蔵庫」は、改良に、改良を重ね、4枚扉の「無菌庫MRー1100型」を完成。
- 泉研究所は、その他にも食品会社向け、原料肉、魚の大型「無菌・解凍機」を開発。(低温・高湿度の空気を凍結体に接触させ解凍する方法)
- さらに、泉研究所は、台風の原理を応用した、泉式サイクロン式空調装置(バイオクリーンルーム)を開発。東京(墨田)に借りた工場内にも、本格的な泉式クリーンルームを設置したのである。
- 東京(墨田)の工場は、便利さもあり来場者も多かったが、その後、松戸に、より広い工場を借り、引っ越したのである。
- 大々的な宣伝もあり、泉式装置(肉、魚の大型解凍機、食品会社のクリーンルーム、病院手術室のバイオクリーンルーム)は、全国色々の所に納入することになり、その設置工事の立ち会い、その後の運転調整等で出張がとても多かったのである。
- 2004年、定年退職後一年掛けて、それまで温めていた、室内温室を利用した「植物利用空気清浄器」を完成。(以後、『緑清快』を商標登録(登録第5640942号)
- 2005年(62歳)に、(株)ユタカ鉄工所(松戸)に製缶工として入る。
- 2007年、ユタカ鉄工所に勤めながら、完成した「植物利用空気清浄器」を利用し、水槽付ハイドロカルチャー植木鉢で、色々と実験している過程で、妻から「水槽に魚を泳がしたら面白いのでは…」とのアイデアが出て”なるほど”と思い、試行錯誤の末「観賞魚水槽を有するハイドロカルチャー」を完成。その後『グリーンピー』を商標登録。(登録第5775176号)
- 200年、(有)日向研究所を設立。